好評企画「上田ではなぜ?」。今回は上田を代表する薬剤師、河合操(かわい・みさお)を紹介する。 日本の近代的医事制度の始まりは、1874(明治7)年、文部省から東京府、京都府、大阪府に通達された『医制』全76条である。この第41条に「医師たるものは自ら薬をひさぐことを禁ず。医師は処方書を病家に附与し相当の診察料を受くべし」と、西洋流の医薬分業が明記されていたことをご存知だろうか。 しかし、当時の医家の大半は漢方調剤を主な仕事とする薬師でもあったため、薬舗兼業の仮免状を与えられ、"処方書"は普及しなかった。1889(明治22)年には、『薬律』(薬品営業並薬品取扱規制)が発布された。第1条には「薬剤師とは薬局を開設し医師の処方箋により薬剤を調合する者をいう」と定義されたものの、附則43条で「医師は自ら診療する患者の処方に限り、自宅に於いて薬剤を調合し販売授与することを得」が追加されたため、医薬分業は骨抜きになった。 こうした状況に一石を投じたのが、上田の薬剤師であった河合操(かわい・みさお)である。河合は1867(慶應3)年の生まれで、上田に薬局を開設した薬剤師である。上田出身の医師であり、発ガン実験で有名な山極勝三郎(やまぎわ・かつさぶろう)の助言で薬学を志した。長野県薬剤師会の会長を2期4年間務め、大正9(1920)年には日薬の代議員となった。 彼は、医薬分業が進まないのは「医薬両者の利害の相克」が原因だとして、医療を利潤追求の手段としないため薬局の国営化を提案した。日薬の代議員会に提出された『薬局国営案に関する建議書』は結局、棚上げにされてしまうが、「私心を捨てた大胆な提案は、上田の薬剤師魂そのものだ」と、飯島氏は高く評価している。彼の興したカワイ薬局は、今も上田市内で盛業中だという。