午後の診察開始時間の前に、事務員のFさんが私に声をかけてきた。 「さっき掃除をしていたら、こんなものがソファの下に落ちてたんですけど...」Fさんが持っていたのは、手のひらに納まるくらいの大きさで、赤いプラスチック製の円筒形の物体だった。 「あ、フルボトル」 それは、子供たちの間で大人気の特撮ヒーロー番組『仮面ライダービルド』の変身アイテムのおもちゃだった。主人公がこのフルボトルをシャカシャカと振ってベルトに装着すると、ボトルに込められた動物や機械の力で戦うライダーに変身できるのだ。 「へえ、最近のおもちゃって、こんななんですね」 既にお子さん二人が成人しているFさんは珍しそうにボトルを眺めた。 「あっ! それ、午前中に来てた◯◯ちゃんが持ってたような...。ちょっと電話してみます」 薬剤師のA子さんが早速、薬歴パソコンから患者情報を呼び出し、電話をかける。 「お母さんにつながりました。夕方までに取りに来てくださるそうです」 「あ~、それは良かった。じゃあ失くさないようにこっちに入れときますね」釣銭の入った引き出しに、私は赤いフルボトルをしまった。 「こういうのを失くすと子供が泣くんですよね~」 「そうそう、『ボクのライダーのがない~!』って」 「それで母親が怒るんですよね、『もう~、だから持っていっちゃダメってお母さん言ったでしょ!』って...」 Fさんと二人、かつての我が子と自分を思い出しながら、話が弾んだ。 子供にとって、こういうアニメや特撮ヒーローのおもちゃはただの玩具ではない。 強くてかっこいい憧れのヒーローと自分を重ね合わせ、ヒーローが活躍する世界と自分をつないでくれる、かけがえのない宝物なのだ。そんな大切なものを失くしたら、大泣きしてしまうに決まっている。 母親だって、我が子にそんな悲しい思いをして欲しくないからこそーーそのうち忘れてしまうとわかっていてもーーつい、「ダメ!」と言ってしまうのだ...。 <div style=" border: 1px dashed #ddd; padding: 5px; background: #d5e3ff; margin: 20px 10px;"> 私の勤務する薬局は、近くに皮膚科と耳鼻科があり、小さいお子さんの処方箋を持ったお母さんの来局が多い。薬ができるのを待つ間も、お母さんには心の休まる暇もない。 3歳くらいの女の子が、うんと背伸びをして、ドアの開閉スイッチを押し、外へ出ようとする。 「あっ! 出たらダメよ××ちゃん!」慌ててお母さんが我が子を捕まえ、抱っこしてソファに座りなおす。 薬局の前は、狭い歩道をはさんですぐ車道があり、交通量も多い。ちょっとした隙に子供が出て行ってしまわないよう、お母さんは一瞬たりとも我が子の姿を視界から外すことはできない。 だが、薬の説明を聞く時だけは、そうはいかない...はずなのだが。 「△△さん、お待たせしました」 はぁいと返事をしたお母さんにくっついて、さっきの女の子がやってきたが、何か気になるものでもあるのか、ちょこちょことその辺を歩き回っている。 お母さんは、私の話に「はい、はい...」と受け答えをしながらも、我が子の方をチラチラと見ている。また、さっきみたいに出て行ってしまいそうにならないかと気が気ではないのだ。 お母さんの意識の半分以上は我が子の上に引き寄せられ、私の話は右の耳から左の耳へとすり抜けそうになる。 ーーああ~、その気持ち、痛いほどわかる。 「今、ここで我が子の安全を守るのは、すべての責任は、母親である自分一人にかかっている」という重圧。 その十字架は、子供一人ぶんだけでも充分重いのに、二人いれば二人ぶん、三人四人といればその全部が母親にのしかかってくる。 その切ないほどの思いが、業務に当たっている私にも、ひしひしと伝わってくる。 だから私も、薬の説明をしながらも視線はしっかりとお子さんの動きを追っている。大方の決まりきった説明事項は脊髄反射的に口からツルツルと出てくるから、薬局内から出ていかないよう監視するのは、そう難しいことではない。 私の目線が薬ではなく、カウンター越しにお子さんを見ているのがお母さんにもわかるはずだ。 「お子さんのことは私たちが見ていますから、安心して薬の説明を聞いていて大丈夫ですよ」というメッセージを、なんとかしてお母さんに感じ取って欲しいのだ。 <div style=" border: 1px dashed #ddd; padding: 5px; background: #d5e3ff; margin: 20px 10px;"> 薬局に薬をもらいに来るのは、育児をする時間の中でもほんの一部でしかないだろう。 だが、その一部の時間であっても、少しでも母親の負担を軽くしたい。その思いは、薬局スタッフだけでなく、子育ての経験がある患者さんにもあるようだ。 たとえば、自動ドアのそばで小さいお子さんが遊んでいると、自分の子供でなくても自然と「そこは危ないよ」と声かけをしてくださる患者さんが多い。 小さいお子さんが泣いたりぐずったりしていても、「うるさい、静かにさせろ」なんて言う患者さんは一人もいない。 たまたま薬局で一緒になっただけの見ず知らずのお子さんなのに、気さくに話しかけ、かわいがる高齢の患者さんも多い。 「今、何ヶ月?」「1歳10か月です」「あら~、うちのひ孫と一緒ね~」 この薬局の患者さんは皆、子供を見る目が本当に優しい。 目の前にいる小さな子供の成長が健やかであること、その母親の負担が軽減されること。当たり前のようにそれを願い、母親へのサポートを実践する。 この世にただ一人のかけがえのない小さな命と、片時も目を離すことなくその命を守ろうとする母親とを、薬局スタッフも患者さんも皆が見つめている。 <div style=" border: 1px dashed #ddd; padding: 5px; background: #d5e3ff; margin: 20px 10px;"> <div style="border: 1px dashed #ffd990; padding: 5px; background: #fff3dc; margin: 20px 10px;"> 【コラムコンセプト】仕事に家事に育児と、目まぐるしい日々を送る母親薬剤師。新薬や疾病の勉強もしなきゃいけないが、家のことだっておろそかにできない。追い立てられるように慌ただしい毎日だ。そんな中で、ふと立ち止まり、考える。「働く母親って、どうしてこんなにいろんなものを抱え込んでしまっているんだろう?」「薬剤師の業務って、どうしてこんなふうなんだろう?」忙しさに紛れて気付けずにいる感情に気付いたら、働く母親に見える景色はきっといくらか変わるだろう。日常の業務に埋もれたままの何かを言葉にできたなら、薬剤師を取り巻く世界も少しずつ変えていけるだろうか。 【へたれ薬剤師Kiko プロフィール】卒後9年間病院勤務ののち、結婚を機に夫の地元で調剤薬局に転職。産休育休を経て、現在は中規模チェーン薬局にフルタイムで勤務。アラフォー。8歳の息子、夫(not薬剤師)と3人暮らし。食事は手抜き。洗濯は週3回。掃除はルンバにおまかせ。どういうわけだか「コトバ」に異様にこだわる。座右の銘は「モノも言いようで門松が立つ」。(Twitter:@hetareyakiko)