悪魔が来たりてイナビルを
患者さんが途切れ、たまった薬歴を書いていると、その日一緒に勤務していたはずの薬剤師、A子さんの姿が見えないのに気づいた。感染症隔離室にふと目をやると、中にA子さんの姿。そしてレジカウンターには、それを心配そうに覗く事務員さんがいた。
あー、イナビルか......。
私も隔離室カウンターに入ってみると、5歳ぐらいの男の子がお母さんに抱かれたままウエウエとしゃくりあげている。
「笛は鳴って、本番も2回は吸えたんですけど......」去年4月、新卒で入ったA子さん。使いかけのイナビルを持ったまま私に言った。小児にイナビルが処方された場合、うちの薬局では、まずは吸うと音が鳴るデモ用の笛を試してもらう。うまく吸えたら本番、イナビルの吸入である。だが、笛はうまく吸えても、イナビルになると嫌がったり、吹いて粉をまき散らしてしまう場合もある。
「ほらっ! ○○ちゃん、あと2回! あと2回吸わないと帰れないんだから!」
お母さんも必死だ。
薬が勿体ない(乳幼児医療費助成で自己負担が0円でも)、治らないと困る、というか治らないと子供がしんどくてかわいそう、いつまでも薬局に居座って申し訳ない......など思っているのだろう。とにかく早く子供に吸わせようと一生懸命なのだが、一旦しゃくりあげ始めた子供を吸入できるように落ち着かせるのは至難の技だ(むしろその必死さが、かえって子供の不安を増大させているのだが、まさかそんなことは言えない......)。それでもなんとか機嫌を直してもらえないかと、私も笑顔で呼びかける。
「お薬、おいしくなかったかな? お水でも飲む?」優しく声をかけたが、男の子はイヤイヤしながら母の胸に顔をうずめた。
よし、わかった! 諦めよう!
具合が悪い時に、知らない大人にワケのわからないモノを吸えと言われたって、無理だよね。飲み薬に変えてもらうのでお待ち下さい、とお母さんに説明し、A子さんには医師にタミフルへの変更依頼をしてもらうことにした。
小児にタミフルを出すか、イナビルを出すか。タミフルを5日間飲ませるのも大変だけど、一発勝負のイナビルだって4回吸わせないといけない。笛は鳴らせたのに、本番では失敗する場合も多い。医師も薬剤師も神様ではないのだから、その見極めができなかったからといって、誰を責められようはずもないのだが......。
「飲まないと治らないよ!」
「吸えないと治らないよ!」
その言葉は子供だけでなく、母親自身をも追い詰めている。
何年か前、インフルエンザにかかった12歳のお子さんの処方箋を持って来局したお母さんがいた。当時、イナビルは発売されていない。タミフルは異常行動を引き起こす恐れがあるとして10歳代への処方を控えるよう添付文書の記載が変更されたばかりだった。
自分の子供にタミフルが出ないと知った母親は、涙目で私に訴えた。「タミフルはもらえないんですか? じゃあどうしたらいいんですか?」その母親に私がどんな言葉をかけたのか、記憶がない。
抗インフルエンザ薬の発売前からインフルエンザはあった。薬がなくても治った人は多数いた。......不幸な転帰をたどる割合は今よりずっと多かっただろうけど。イナビルもタミフルも、服用しないよりはしたほうが早く症状は軽快する。それを便宜上「治る」というコトバで言ってしまっているだけだ。「病気に効く薬がある」ということは、「薬を飲まなければ治らない」ということではないはず。それなのに薬ができたとき、不思議なことに「薬を飲まないと治らない」というコトバもまた同時に生まれてしまったのだ――。
だが、そんな落とし穴にはまるわけにはいかない。イナビルを吸えなくても、タミフルを飲めなくても、「大丈夫。治るよ」って伝えたい。もちろん、上手に吸ったり飲んだりできたら「偉いね、これで治るからね」って、安心させてあげればよい。
今日も5歳の女の子にイナビルが処方された。笛の鳴らし方を説明したのだが、全然鳴らない。本番前にダメだとわかったのだから、イナビルが無駄にならなくてよかったよね......と思いつつ処方元に電話しようとしたその時。
「ピーッ!」と、笛の音が隔離室の方から聞こえた。
受話器を置いて、隔離室に戻る。
「もしかして、できた? もう1回鳴らしてみてくれる?」
ピーピーと、私の呼びかけに答えるように女の子が笛を鳴らした。
「わあ~! 上手にできたねえ~! きっと本物のお薬もうまく吸えるんじゃないかな? 頑張ってみちゃう?」
うなずいた女の子に、1回目をセットしたイナビルを吸わせる。白い粉が舞うこともなく上手に吸えた。
「うわぁ~、うまい! その調子! じゃあ次いってみよっかぁ~? そうそう、上手~~! じゃあ、あと2回頑張れるかな~?」
まるで『おかあさんといっしょ』の体操のお姉さん。年甲斐もなくニッコニコハイテンショントークで褒めちぎりながら、吸入指導を終えた。
「すごいねえ、上手にできて偉かったね。あとはおうちに帰ったら、お母さんの言うこと聞いておとなしく寝てたら、ちゃんと治るからね!」
お母さんに抱っこされて帰っていく女の子に、そう伝えた。その言葉がお母さんにも届いて、治るまでの不安を少しでも和らげるように、と。

【コラムコンセプト】
仕事に家事に育児と、目まぐるしい日々を送る母親薬剤師。新薬や疾病の勉強もしなきゃいけないが、家のことだっておろそかにできない。追い立てられるように慌ただしい毎日だ。そんな中で、ふと立ち止まり、考える。「働く母親って、どうしてこんなにいろんなものを抱え込んでしまっているんだろう?」「薬剤師の業務って、どうしてこんなふうなんだろう?」忙しさに紛れて気付けずにいる感情に気付いたら、働く母親に見える景色はきっといくらか変わるだろう。日常の業務に埋もれたままの何かを言葉にできたなら、薬剤師を取り巻く世界も少しずつ変えていけるだろうか。
【へたれ薬剤師Kiko プロフィール】
卒後9年間病院勤務ののち、結婚を機に夫の地元で調剤薬局に転職。産休育休を経て、現在は中規模チェーン薬局にフルタイムで勤務。アラフォー。8歳の息子、夫(not薬剤師)と3人暮らし。食事は手抜き。洗濯は週3回。掃除はルンバにおまかせ。どういうわけだか「コトバ」に異様にこだわる。座右の銘は「モノも言いようで門松が立つ」。(Twitter:@hetareyakiko)
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