研究の背景:BCGによる結核予防、今でも「効く」のか? 古い文献を現代の目で見直すことに抵抗を覚える人は一定数存在する。奇妙なことだと私は思う。 インフルエンザワクチンが学童に効果がなかった、と主張した「前橋スタディ」。その全文を読んで「当時としては頑張った研究だけど、現代の目では欠点が多過ぎてそのまま採用できない」と私は批判した。どこが問題だったのかについては拙著(『予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える』)で詳しく解説したが、端的に言えば「診断基準が甘過ぎる」という、かなり致命的なものだった。 もちろん「当時としては仕方なかった」という言い方はできる。しかし、少なくとも「前橋スタディがあるのだから学童にインフルワクチンは必要ない」とは言えない。 われわれに必要なのはファクトであり、ファクトだけであり、「当時としては頑張っていた」かどうかの物語には興味がない。物語として仮に興味があったとしても、それは「物語」として了解すべき話であり、現代医学に適用する根拠にはできない。ライト兄弟の物語を読んで感動しても、ライトフライヤー号に乗って旅行や出張に行こうと思ってはならないのと同じだ。 時々、人文系の学者が「昔の学者を現代の目で論じてはならない」と主張することがあるが、それは間違いだと私は思う。アリストテレスもヘーゲルも、現代の目でクリティークするのが正しい。 アリストテレスは天動説を唱えてしくじった。ヘーゲルは骨相学を批判したが、それは精神を物質に還元するような物質主体な見解を批判したためである。しかし、もしかしたら精神は脳という「物質」の構造や機能がもたらしている可能性はあり、少なくとも脳という物質が精神の在り方に寄与していることはほぼ確実で、ヘーゲルが批判した還元主義は間違っていなかったと言えなくもない。 だからなんなのだ、と私は思う。いにしえの巨人たちが間違いを犯したとしても、彼らの偉大さが損なわれるわけではない。むしろ「アリストテレスが言ったことだから」と、彼の誤謬を擁護する方が、巨人に礼を失した態度であろうとすら思う。 この背景にあるのは、「こと」と「ひと」を区別できない未熟な日本社会の「議論ができないエートス」にある。「こと」批判が人物批判にすり替えられ、誹謗中傷であるかのように勘違いされ、顔を真赤にして「ふざけんな」と激怒するのだ。クルーズ船で災害対策のプロが感染対策をしくじったからといって、そのチームや人物自体がおとしめられたわけではない。そもそもがミスマッチなのだし。しかし、人は(特に日本人は)「物語」に固執し、ファクトよりも物語を優先させ、「こと」の問題を常に「ひと」の問題に換言させてカタルシスやルサンチマンに走る。詮ないことである。 そういう意味では「アリストテレス哲学」とか、「ヘーゲル哲学」といった人物名で学問カテゴリをつくるのがそもそもよろしくないのだとすら、私は思う。「アインシュタイン物理学」とか「山中伸弥医学」とか言わないでしょ。 反ワクチンという態度が良くないのも、「ワクチン」というカテゴリで医学医療を否定するからである。「反手術」とか「反錠剤」という概念が奇妙なことから、反ワクチンはカテゴリ・エラーであることはすぐ分かる。それなのに「ワクチン」というカテゴリでその是非を論じるから、彼らは陰謀論に屈しやすいのである。 したがって、その逆の態度を取っても駄目なのである。親ワクチンでは、反ワクチンのコインの裏表であり、考え方は同じである。どのワクチンの、どの疾病に対する効果や安全性を各論的に論じるのが大事である。「こと」の問題なのだから。 BCGは結核に対するワクチンだが、その効果は乏しく、多くの先進国ではルーチンで用いていない。私も用いない。しかし、このようなことを言うと「イワタは反ワクチンなのか」とか「反ワクチンを喜ばせるつもりか」と非難の声が上がる。では、反ワクチンを怒らせるようなことであれば、ファクトをねじ曲げてもよいのだろうか。 米国ではBCGを使わずとも結核はどんどん減り続けている。しかし、「ここは日本だ、米国と一緒にするな」という意見もあろう。 そこで、Perplexityに、日本におけるBCGのエビデンスはあるのか、と問うと「ある」と意外な答えが返ってきた。今回、検討するのはそれである。現代の目で読み直したい。 高松勇ら. 最近のBCG接種の効果をめぐって. 結核 1995; 70: 561-566.